書画家 高野こうじ 公式blog

書道、アートの作品を中心に日々感じたことを綴る

神じゃない

24年振りのイタリアの優勝もたったひとりの
フランス人によってずいぶん霞んだ印象だ。

確かに暴力は許されることではないし、
あの局面で退場になるようなことを自ら
やるのは非難されるべきかも知れない。
世論もマスコミもそんな論調だ。

だけど、考えてみてほしい。その直前まで
ジダンマテラッツィは笑顔が出るほどだったのに
マテラッツィの一言で事態は一変する。例の頭突きだ。
侮辱発言があったことは両者が認めている。
それを容認されるサッカーの世界に俺は以前から
疑問があった。これまでも差別発言などが公になり
処分を受けた例は多々あるけど、今だって試合中は
そんな挑発的な発言がとびかっている。

例えば自分の取引先や、別の課の人、上司から
「君のお姉さんは売春婦なんだよね」とか
「あなたの親戚はテロリストだからなぁ」とか
マテラッツィは「俺は賢くないからテロリストの
意味もわからない」と失笑もののコメントを出した)
肉親や血の繋がった人を侮辱することを言われたらどうする?
それもジョークやおふざけではなく、真剣な会議や
仕事の現場で。これがピッチの上で横行してるのだ。
ジダンは最後の最後にその罠にはまったわけだが
必要なのはその罠を取り除くことだと俺は思う。

サッカーのルールの中には状況に応じた紳士的判断みたいな
項目もある。この辺の例えは説明すると長くなるので割愛。
ジダンがキレたみたいに言われるけど、キレたんじゃない
闘ったんだと俺は思ってる。
キレることと闘うことの違い、
叱ることと怒ることの違い。

ジズーさんよ、かつてあんたが所属したユーベの
ユニフォームを着て俺が引き継いでゆくよ。
技術は無理だから魂だけな。