見知らぬ街で
長き友と。
言葉の灯火が時を彩る。
穏やかに静けさへと収斂される。
波がないから小さな機微が波紋になる。
雑音がないから心の動きが聴こえてくる。
「その人を知らざれば、友を見よ」
まったくもってそんな存在になれないが
こうして学び、感じ、少しでも。
最高の岩牡蠣とテーブルを囲んだ人たち。
その残像を思い出しながら。
できた。
どこにでもある、
だけど特別な風景。
12歳まで過ごした街を訪れた。
ホームランボールはいつも住宅の壁を越えてその度に呼び鈴鳴らして申し訳なさと嬉しさで取りに行った。
日が暮れてなお、ビー玉遊びをしていた公園。
小さな体をすぼめて入った秘密基地は宅地になっていた。
たーちゃんちは表札が変わっていた、
透くんちはそのままだった。
当時セブンイレブンってのが日本に出来て、スラーピーを一気に飲んで頭キンキンさせてたっけ。
あの頃の少年に語りかけるようにありふれた街を歩いた。
歩けなくなった母親に見せてやろうとありふれた景色を撮った。
家族が家族であった場所。
トタンの生家は変わらずあった。
冷たいビールが飲みたくなって
今という場所に向かった。
「響」
信の友とはね、
「響」きあうものがあるかどうか。
この心の音が言葉や行動や所作となって相手に届き、
また相手の発する音を感じとって響きあうことができる。
だから心の音を偽ったり、それ以上にしたり、消したりしちゃだめだ。
不協和音やノイズになって相手に閉ざされしまう。
耳障りのいい音を奏でる必要はない。
嘘のない音
それだけでいい。
すべての人にではなく、
同じ周波数をキャッチした人と友達になれたら最高だ。
そのためには感性を磨き続ける。
感性という楽器から自分の音を奏でる。
幸せのフルート、
怒りのサキソフォン、
たおやかなピアノ、
不安のジャンベ。
リズムが走ろうがピッチが狂おうが構うことない。
どこにもない、心からの響き、
それは誰か心に響く。
それが聴きたい。
故郷の朝。
近くの記憶は消えて、
時間は意味をなさなくなる。
最愛の人は音も灯りも消えたリビングの椅子に座り、遠き日を探すように空虚を見つめている。
そして急に若き日の小さな断片を克明にしゃべりだす。
生きることに必死だったひたむきさと
新芽のような活き活きとした時間は
老いてなお
煌めきだすのか。
無性に走り出したくなった。
すぐに着替え、家を飛び出す。
痛みを振り切ってスピードを上げるほど、
心の慟哭だけが追いついてくる。
息を切らし、信号で止まる。
空は悲しいほどに青く美しい。
受け入れ、抱きしめて。
また走り出す。